東大落城 佐々淳行
医学部の前近代性とそれに対する改革要求が東大紛争の原点だった。
大河内総長は退陣、十学部長全員のいっせい更迭を余儀なくされた。
学園紛争の最高峰は日本大学だった。
東大も日大も、利湯は正反対であっても、学園紛争が始まったころは、学生側が怒って騒ぐのも無理のないところがあって、造反有理だった一面もある。
どこの大学でもそうだったが、法学部と工学部はきちんとしていて話がつけやすいが、一向に埒があかないのが、マル経の経済学部や文学部だった。
「東大紛争百七十三時間の軟禁」(林健太郎:「昭和史と私」、文芸春秋社)
こんな人たちが日本の大学教育を担当してきたかと幻滅を覚えるような学者先生が多い中で、体を張って学生たちに全人格的な教育を施そうとした林健太郎文学部長は、本当に偉かった。
全共闘はその政治目標達成の方法論として、マルクス・レーニン主義の「目的は手段を正当化する」との理念を援用し、直接行動を目的の正しさによって正当化される人民の抵抗権と理論づけて、ゲバ闘争を展開して結局自滅した。・・・全共闘運動が挫折した時、リーダーたちは自分たちの間違いに気づきながら依然として、戦術上の誤りで戦略目的は正しいと信じようとして本当の意味の総括をしなかった。
以上
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