名将の条件 参謀の条件 百瀬明治

毛利元就
引退の時機を逸した名将
その孫毛利輝元は、関ヶ原の戦いの西軍の総大将であったが、その関が原に姿を見せていなかった。l西軍攻撃陣のかなめの位置を占めた吉川広家(一門)がしまいまで兵を動かさず、ついには小早川秀秋(一門)らが戦いの最中に裏切って味方の軍に攻めかかった。輝元は戦後、112万石を36万石に減封されても甘受。
三子教訓状を課して、引退した後も、嫡男隆元の後見、院政をしく。隆元病死後も、孫輝元の陰で実権握る。輝元は40代になるまで訓練がされず、自主的な決断を下す能力をつけなかった。
子孫に懇願されたとはいえ、死の直前まで組織のトップに君臨し、リーダーシップを手放さなかった。適当な時期に簿ボケたふりでもして子孫に全権を譲っていれば、ひょっとして毛利が天下統一の主役となったかもしれず、また元就の武名も今以上にずっと高まっていたかもしれない。

伊達輝宗
潔く身を引いた父親としての配慮、伊達政宗の父。

竹中半兵衛
秀吉の軍師を10年間務める。黒子に徹した。
信長による抜擢などに貢献甚大。早逝。

黒田如水
秀吉の軍師。秀吉を天下人に押し上げた。
秀吉は人材活用の名手であった。信長の死の直後、必秀を討って天下人になる策を献じた。秀吉を前に、能力を剥き出しにして疑心暗鬼におとしいれたのは、如水一代の失策であり、参謀の立場を踏み越えた愚行だった。

本多正信
家康の懐刀。鷹匠だったが、家康に抜擢される。
参謀は、たとえ求められても、自分の意見を先に述べるべきではない。問題の核心を適当に指摘しつつ、トップに誤りを気づかせてトップ自身による最終的決断に導いていくのが、名参謀の条件であろう。「馬上天下を取るも、馬上天下を治むるべからず」

山本勘介
武田信玄の軍師
信玄は、何かを決定するときは、まず重臣たちを招集して意見を述べさせ、最後に信玄が彼らの総意を汲んで断をくだす、という手続きを怠らなかった。
勘介は、まず信玄の真意を体し、事前に重臣の間に根回しをする。ついで会議の席でも、巧みに出席者の意見を調整し、合意への舵取りをした。

かしま源吾
道理の通らぬような暴君だけは、ごめんこうむりたい。どうせ仕えるなら、主君は寛い心を持って部下を慈しみ、また部下の功績を正しく評価してくれる人物であってほしい。(信長への仕官を断って)

故に善く戦う者は、これを勢いに求めて人に責めず(もとめず)、故に能く人を択びて、而して勢に任ず(孫子)孫子の主張は結局、「勢い」をわがものにできれば、組織をも個人もふだんの実力以上のことえをなしとげることが可能になるということに尽きる。

以上