スナ-ク狩り 宮部みゆき
親族が雛壇から遠い席に座らされるのは、この祝宴にこぎつけるまでに、どれほど目出度くないことを乗り越えてこなければならなかったか、よく知っているからなんだ。それが、無意識のうちに顔に出てしまうから、隅の方へ追いやられてしまうんだ。
約束を交わした相手が死んじゃったんだ。もう、その約束を破るわけにはいかないよ。
もう恋人がいるようだったたあきらめちゃうのかい。そんなおとなしいことじゃだめだよ。ぶんどるくらいの覚悟でなくちゃ。
言葉より行動。人間、ものをいうのは行動だ。
人間て、学校や社会のなかにいるとき、お面をかぶっているもの。そんなの、偽物の顔でしょ。
ぼうっと放心してるときの顔には、その人の本性がでるのよ。
暑いと言えば余計に暑く感じ、痛いとうめけば実際以上に痛く感じる。それと同じ道理だ。黙って我慢していれば、そのうち我慢していること自体を忘れてしまうことができるのに。愚痴めいたことをことを言えば、言った分だけ自分の身に帰ってくるということだ。
作者は説明でなく、しっかりと小説ならではの描写をしているのである。
映像的でありながら、映像表現不可能な場面。
作者はひとつひとつの場面で対象をリアルに浮き彫りにするだけでなく、見るものの内面さえもくっきりと投影させているのである。
彼は慶子の額の傷を気にしながら、ごく素朴に、こう言った。
「かわいそうに」
今まで誰も、こんな単純な同情の言葉を投げてはくれなかった。堤防を壊す、たったひとつの小石は、こんなに素直で、こんなに簡単な言葉だったのだ。。。。。いったい、堤防を壊すたったひとつの小石の比喩など、どう映像化できるというのか。
目に見えるような映像型の表現を使っても、言葉ならではの力強い比喩や挿話を使って説得力を持たせているというべきか。
映像時代に受けるだけの魅力的なディテールに充ちていて、それでいて決して映像に奉仕するような安直な代物ではなく、小説ならではの描写に充ちた優れた細部がぎっしりつまっている。
以上
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