愛国の作法 姜尚中(カン・サンジュン)

市場メカニズムは公共財にかかわる他の制度的な活動によって補完され、その結果、「ナショナル・ミニマム」や「シビル・ミニマム」といった国民の最低限度の平等な生活水準が確保されてきた(アマルティア・セン、自由と経済開発)

グローバル化の圧力は、政治的指導者や志をもった政党に自らの政治的・倫理的なアイデンティティと矛盾する政策を採用するようにさせているのです。つまり、「構造的要因が価値的選択を圧倒」(マーサ・ヌスバウム、国を愛するということ)し、社会統合の度合いが低下するとともに国民的共同体の一体感が薄れていかざるをえないのです。

非正社員の増加が所得格差の固定化につながらざるをえません。このような格差の固定化が、結婚や少子化の問題に波及し、年金や社会扶助など、社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の存続に暗い影を落としています。

公共的な事柄に無関心になり、利己心がはびこり、公共生活からの撤退に拍車がかかるのです。

共同体的世界は、共同体の外にあるものすべてが、どうでもよくなったときに完成する。もっと正確にいえば、共同体の外が共同体の敵対者、混乱を武器としてふりかざす敵にあふれた、待ち伏せと陰謀の未開地にみえた時に完成する。(ジームクント・バウマン、リキッド・モダニティ)

社会の矛盾は、当の個人の生き方によって私的に解決することが強要されているのです。

はかない共同体も、メディアのポピュリズム的なヒート・アップによって煽られると、熱狂的な連帯感情を生み出すことがあります。つまり、いつもは公共的な事柄に無関心な人々が、忽然として過政治化し、熱狂的な盛り上がりをみせることがあるのです。

このように所得や富、雇用や機会、自由や尊厳といった、社会の公共的な価値(基本財=基本的な善きもの)の供給とその配分的な正義が、公共の空間から市場や私的領域に移し替えられ、リスクの個人化が進めば進むほど、逆説的にも国家への求心力が強まりつつあるのです。それは、もはやほとんどリアリティをなくしつつある「互いの運命を分かち合う」(ジョン・ローズ、正義論)という社会的連帯を、国家の求心力をてこに再び「一つの国民」へと統合していくことを意味しています。

自然と伝統というあらかじめ所与として存在していた安全が失われたりリスク社会においては、不安というものが、共同体の新しくて壊れ易い紐帯となります。

規範としての平和な状態と、例外としての紛争状態(戦争状態)の境界も曖昧になりつつあります。これに対応して、防衛からセキュリティへの転換が叫ばれ、国境の内外を問わず、治安・公安に関する保守的な姿勢から先制攻撃(予防戦争)を狙いとする積極的な姿勢への移行が起ころうとしています。

セキュリティの概念は、国内と国外、軍事と警察の区別の消滅を示唆している・・セキュリティは国の内外において恒常的な戦争=警察活動を行うことを正当化することになるのですから、セキュリティの名のもと、民主主義の停止も例外ではなく、常態となってします懼れがあります。

愛国心という言葉が醸し出す「優美で繊細な心の作用」(例えば「もののあわれ」)が、しばしばその反対の「不気味で醜悪な政治活動」と結びついているという「宿命的な共存関係」。この逆説的な結びつきに対して先に紹介した「『美醜の感覚』を失うべからず」や『国家の品格』の著者たちはあまりにもナイーブではないでしょうか。

美しい風土、美しい言語、美しい文化の共同体が、そのまま国民になるわけではありません。そのためには、一定の政治的意志をもって国家を形成し、その憲法=体制(コンスティテューション)を通じて国民の共通の課題や利益(公共の福祉)の達成を図ろうとする国民に「なる」必要があるのです。

愛するということは、生きることが技術であるのと同じように、ひとつの技術なのです。(パラケルススの言葉)

「日本語という言葉で私はこの国に結びつけられている。その結びつきを愛というのなら、愛とはおよそ運命の異名である」(渡辺京二、直き心の日本、文芸春秋)

日本人とは、「国語といふ巨大な母胎」にくるまれ、それによってはじめて自らの心の自己表現を達成できる民族のことなのです。

(サディズムとマゾヒズムの)どちらのばあいも個人の統一は失われる。一方では私は自己の外側の力のなかに解消する。私は私を失う。他方では私は自己を拡大し、他人を自己の一部にするが、そのさい私は独立した個人としては欠けていた力を獲得するのである。(フロム)
フロムが、こうした「サド・マゾヒズム的性格」を「権威主義的性格(パーソナリティ)」と呼んだことはあまりにも有名である。・・・この意味で、「権威主義的性格」こそ、ファシズムの人間的基礎となるようなパーソナリティの構造の代表に他ならないのです。

丸山(真男)は、「八紘一宇」「天業恢弘」「皇道宣布」といった仰々しい大言壮語と軍の中枢にいたパワーエリートたちの「弱い精神」の滑稽なほどのコントラストを鮮やかに浮かび上がらせています。そこにみられるのは、「既成事実への屈服」と「権威への逃避」という矮小な凡庸さです。要するにナチドイツの「無法者たち」にみられるような能動的なニヒリズムの明快さも悪に居座ろうとする冷酷な大胆さももられないのです。劣等感を秘めた空威張りの優越感と盲目的な愛国心、外国人嫌悪と超過敏な脆弱さ。そうしたパーソナリティこそ、「戦犯者たちの異口同音の戦争責任否定」(丸山眞男、軍国支配者の精神形態)を支えていたと丸山は言います。

(マゾヒズム的努力の)もう一つの面は、自己の外部の、いっそう大きな、いっそう力強い全体の部分となり、それに没入し、参加しようとする試みである。その力は個人でも、制度でも、神でも、国家でも、良心でも、あるいは肉体的強制でも、なんでもよい。ゆるぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力の部分となることによって、ひとはその力と栄光にあやかろうとする。ひとは自己自身を屈服させ、それのもつすべての力や誇りを投げすて、個人としての統一性を失い、自由をうちすてる。しかしかれは、かれが没入した力に参加することによって、新しい安全と新しい誇りとを獲得する。またかれは疑惑という責苦に抵抗する安全性も獲得する。マゾヒズム的人間は、外部的権威であろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、とmかくそれらを主人とすることによって、決断するということから解放される。・・・かれの生活の意味やかれの自我の同一性は、自身が屈服したより大きな全体によって決定されるのである。(フロム、自由からの逃走)

人々を全体主義に奔らせ、その支配に慣らせてしまうものは「いたるところで増大しているVertassenheit(見捨てられている状態)」である。・・・組織化されたVertassenheitは、一個人の専制的・恣意的な意志によって支配されるすべての人間の組織化されていない無力よりはるかに脅威である。(ハンナ・アーレント)

相手国が堕落しきった極悪非道な国のように見え、いっぽう自分の国はあらゆる善と高貴さを代表しているように思われる。敵の行動を評価するときと、自分たちの行動を評価するときとでは、それぞれちがう物差しを使う。(フロム、愛するということ)

文明と野蛮、高貴さと低俗さ、美しさと醜さ、民主と独裁、善と悪など、二極化した言説は、「こちら側」と「あちら側」、「われわれ」と「かれら」の境界をますます固定化させ、国民の内部的な構成を教条化する効果を生み出します。要するに、相手のイメージがナルシズムによって歪められることで、他者への想像力が停止してしまうのです。

反知性の立場はある架空の、まったく抽象的な敵意にもとづいている。知性は感情と対峙させられる。・・・知性は人格と対峙させられる。・・・知性は実用性と対峙させられる。・・・
知性は民主主義と対峙させられる。・・・こうした敵意の妥当性がいったん認められると、知性を、ひいては知識人を弁護する立場は失われる。だれがわざわざ、情緒の温かみ、堅固な人格、実践能力、民主的感情を犠牲にする危険を冒してまで、せいぜい単に利口なだけ、最悪の場合は危険ですらあるタイプの人間に敬意を払うだろうか。(リチャード・ホーフスタッター、アメリカの反知性主義)

理性や知性は、それ以外の人間の美点を致命的に犠牲にするものであると理解するべきではありません。むしろ、そうした美点を完成させる働きをするものなのです。・・・理性にはその基盤となる感情面の姿勢、つまり「謙虚さ」が必要だと力説しているのです。

「愛するということ」は、客観的な知る段階にとどまっているわけではありません。それはさらに進んで、「信じる」ことの習練を必要とするのです。

冷戦という東アジアの構造的な与件が、日本という国家の国民という立場を自覚的に意識しなくてもすむ歴史的な条件になっていたのです。

日本の国家構造は、かたちの上ではかつてのような強力な軍事・国内治安装置が奪われたが、そうした装置はそれらがまさに必要とされた国外の近隣地域で再生され、アメリカの費用負担によって維持されたのである。(ブルース・カミングス、世界システムにおける日本の位置、歴史としての戦後日本)

国家とは、ある一定の領域の内部でーこの「領域」という点が特徴なのだがー正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。(マックス・ウェーバー、職業としての政治)

国家が命令的・優越的な実力あるいは暴力の概念と結びついているとしても、それだけにとどまらず、国家は一定の規則にしたがって行使される権力の概念に結びついています。さらにまた、国家は実際において承認され「正当化」されたものとして認められる権威と結びついているのです。(ダントレーヴ、国家とは何か)

国家は秩序の強制にかかわる特定の制度的集合体である。

権力のいかなる減退も暴力への公然の誘いであることは、われわれは知っているし、知っているべきであるーそれがたとえ、政府であれ、統治者であれ、権力をもっていてその権力が自分の手から滑り落ちていくのを感じる者は、権力の代わりに暴力を用いたくなる誘惑に負けないのは困難であるのは昔からわかっているという理由だけからだとしても。(アーレント、暴力について)

フランス革命ではじめて主権的な国民国家と「人一般=個人」を担い手とする「人権」との連関と緊張がはじめて成立することになった。

国民に関してふたつのみちが存在している。「(自然的)な諸要素」に基づく国民と「(精神的)な諸要素」に基づく国民、(つまり)自然の存在としての「エトノス」(民族)と人為の産物としての「デーモス」(市民)の違いとして分類することができるでしょう。(ダントレーヴ)

「愛国心」は、自由への愛を含んでいる。したがって、「愛国心」を、与えられた環境への情緒的(感性的)な依存とみなすことは国民の原理そのものを蔑ろにすることですし、ましてや「愛国心」を強制することなど自家撞着と言わざるをえません。

国家は国民と同一視されるべきではなく、逆に人間としての権利、市民としての権利、国民としての権利を人々に保証する「法の最高の擁護者」でなければならない。(アーレント)

中世の場合、私的分野と公的分野、宗教的な事柄と政治的な事柄の間の区別がなく、両者が混同されていました。

近代の立憲主義は、何よりも私的・社会的領域と公的・政治的領域を判然と区別し、個人の自由と公共的決定とを両立させることを前提としています。

戦前の日本の「この国のかたち」の中軸であった「国体」の最大の問題点は、国家があらゆる価値の実体を独占し、諸個人は遍く天皇という存在に対峙させられ、いっさいの価値がその天皇との距離によってはかられる、そのような私的領域と公的領域の区別が消滅した国家だったということです。

丸山眞男の論壇デビュー作「超国家主義の論理と心理」

信教の自由と政教分離の原則を踏み外してしまえば、そのような国家は近代性の原理から逸脱し、大袈裟に言えば、陰惨な宗教戦争の時代を生きたトマス・ホップス以前の時代に逆戻りするようなものです。

憲法20条第3項:国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動をしてはならない。


日本の近代史、現代史の相当部分が、「国体」の一語のもつ暴力性にふりまわされてきた時代(立花隆、天皇と東大)

国民をすべて天皇の「臣民」としてひとつにまとめる国家の機軸が必要となりました。そこで注目されたのが、「国体」です。悠久の歴史に正統性の根拠を置く「国体」を古色蒼然の「復古」としてではなく、近代的な「舶来」の憲法や国家論のタームで縁取る作業の最大の功労者は、言うまでもなく、伊藤博文でした。

国民的秩序は「自然」に成長するのではなく、「政治的作為」によって創出される、と伊藤博文は考えていた。

どうして政治的リアリズムが失われ、いわゆる「国家理性」の技術的な側面が疎かになり、いたずらにスローガン的な国家の行動目標が声高に叫ばれるようになったのでしょうか。なぜ、「外圧に屈するな」「中国や韓国になめられるな」「国家のプライドを示せ」など、権力政治の自己認識の欠片すらもないような情動的な言葉が氾濫し、共鳴し合うようになったのでしょうか。

果たして郷土に対する愛着(郷土愛)は、そっくりそのまま「祖国愛」や「愛国心」んび連続的につながっているのでしょうか。(安倍晋三、美しい国へ、に対する疑問)

近代的な意味で立憲主義に基づく国とは、歴史や伝統や文化はなく、人々の意志的な統合によって成り立つ「国民」(デーモスとしてのネーション)国家(人工国家)のはずです。この意味で、国家は、「公共社会」を主体的に担う国民の不断の作為的な営為によって成り立っているのです。

「悠久の歴史をもった日本という土地柄」への愛着を声高に叫ぶ人々だけが、「愛国者」とみなされてしまう。

民主的政治力の脆弱さと反比例するように、「八紘一宇」「皇道の宣布」「天壌無窮」といった華々しい大言壮語が勢いを増していったのです。

町内会や村落共同体といった伝統的な中間集団を介在しつつ、超国家主義的な上からの動員が成し遂げられていった。

丸山眞男による「個人析出」の四つのパターン@自立化A民主化B私化C原子化

「私化」とは、政治的権威の中心から距離を置き、しかも横の連帯やコミュニケーションが欠けている「非結社形成的な」性格の態度様式を示しています。

「原子化」とは、「社会的な根なし草」の状態を指しています。
政治的に全く無関心と思われ、多くの政党からも「馬鹿か無感覚で相手にならない」とさげすまれている「原子化」された大衆が、「突如としてファナティックな政治参加に転化」することがある。

戦後の日本では何らかの「統合的価値のイメージ」を描くことはほとんど不可能になったと言えます。

平常状態や運動の退潮期には「私化」が優勢になり、激動期や運動の高揚期には「原子化」がメインストリームに躍り出るというパターンは、ほとんどかわっていなかったのではないでしょうか。

「理想」とか「希望」への自己投射のうちに価値を見出そうとするのではなく、与えられた「規範」のすべてを拒否しつつ、「生活」そのものの全領域にひろがる「実感」の操作・構成によって、いわば暫定的な価値視覚を設定しようとする(橋川文三、日本人の価値意識構造)

軽蔑すべき日常生活から逃れるために自分の人生を馬鹿げた概念の型に嵌め込もうとする大衆が増えつつあるようにみえます。

「国家の品格」(藤原)や「国家の大義」あるは「美醜の感覚」や「美しい国」など、何と茫漠とした大味のスローガンではないでしょうか。そこには、具体的な政治状況に対応する具体的な知恵や方策は何も語られていません。それは、政治リアリズムの欠如の裏返しに他ならないのです。

政治的リアリズムがやせ細る一方、感性的な実感や情緒的な美辞麗句が肥大化しつつある。

国民が国家に対して与えようとするものと、国家が国民に要求しているものの間の距離は、教育の力を通じて埋められていく。

生まれた故郷への愛は、「祖国への愛」を含むものではないのだ。祖国には、自分が見たこともなく、したがってまた何ら幼少期の思い出によって結ばれていない町や村のすべて包含しているからである。(R.Michels,Patriotisum)

存廃お瀬戸際に立たされている地域社会は、より広域的な自治体へと吸収されていく道を選ぶのか、それともより開かれた新しい「郷土」の債権を目指すのか、二者択一の厳しい選択の前に立たされているのです。

いかなる罪を国民の政府が犯そうとも、そして時々の市民がその罪にいかに加担していようとも、他ならぬ「わが国」は、究極的には「善である」という感情

「いまだ生まれざる者たち」にsy快適な相貌が何もないーただ「日本人」であること以外はーということが、この場合の「日本人」という国民の「善性」を保証しています。

戦場とはとうてい言えないような場所での殺戮に伴う死者や、あるいは栄えある戦場であるのか、恥ずかしい戦場であるのか、その区別もなく、しかも実際の戦闘で亡くなったのか、餓死や病死なのか、その違いもなく、すべてみな死者を同等に「戦没者」として扱っている。―――靖国神社について

「死者たち」をすべて「献身的な犠牲者」として位置付ける。・・・「国のため、天皇のために死んだ者」は、決して「殺人者」ではなく、「犠牲者」であり、「英霊」として顕彰されるわけです。・・・戦没者は「純粋な日本人」
になった。

国民の「善性」を保証しているのは、「いまだ生まれざる者たち」と「死者たち」に共通する単色の純粋性に他ならない。

われわれが未来の人々の顔だちに求めようとするのは、われわれ自身の存在の遠い痕跡であるだろう。・・・われわれはわれわれの労働と存在によって未来の世代の先祖となることを願うのだ。(マックス・ウェーバー、国民国家と経済政策)

どんなに悪徳と暴虐の限りを尽くした国家と、それに手を染めた国民であったとしても、「もう一度やり直せる」に違いない。こうした「善意」が国民の持続性を支えていることになります。

石橋は、明らかに「精神的武装解除」を通じて新たな戦後精神、国民精神を創造すればいいと考えていた。・・・石橋は、ウェーバーと全く同じく、「未来の世代」への羞恥心を率直に露わにする。(石橋湛山、靖国神社廃止の議、について)
少なくとも満州事変以来軍官民の指導的責任の位地に居った者は、其の内心は何うあったにしても重罪人たることを逃れない。(石橋湛山)

石橋的な「愛国」の可能性、つまり、政治的リアリズムにしっかりと片足を置きながら、「無武装の平和日本」に見られるようにもうひとつの軸足を理想主義に置くような「愛国」の心構えが立ち腐れになってきた。・・・・・極端から極端へとブレる政治的パターンが繰り返される危険がある。

「死者たち」の「国民化」は、国家が「死者たち」を個別的な遺族の手から引き離すことで初めて可能でした。

若し過ちて、何事にても我国民の為したることは是なりとするが如きあらば、是れ真正の愛国心にあらずして、虚偽の愛国心なることを忘るること勿れ。我国民の為したることも、是なることもあれば、非なることもあり。其非なることも、我国民の為したることなりとて、強ひて之を是なりとすることあらば、是れ他国に対して、我国民の信用と威望を損するものにして、決して愛国の所業にはあらず。・・・虚偽の愛国心は、却って其国の信用と威望を失ふものなり。・・・「慈愛心」があって、その延長線上に「愛国心」がある。
(竹越与三郎、人民読本)

故に国家を外にして個人の存立し能はざるが如く、個人の生存と進歩を外にして、国家の目的あることなし。故に国家の政治について、此の目的に外るることあらば、是れ国家の過失なるが故に、愛国心あるものは、起って国家の過失を鳴らして、之を匡正せざるべからず。此の時に方りては、国家の過失を鳴らすことは、即ち愛国の所業なりとす。(竹越与三郎、人民読本)

「愛国」には絶えざる「努力」が必要なのです。

丸山眞男、忠誠と反逆

内面的な被縛感をぬぎすてた裸の感性的な自我の「解放」は、一度そのような客観的条件が潰え去ると、急速に体制への大量なコンフォーミニズム(同調主義)に流れていく弱さを孕んでいる。

忠誠も存ぜざる者は終に逆意これなく候

現実国家の行動態度の混迷する時、国家の理想を思ひ、現実国家の狂する時、理想の国家を思ふ。之は現実よりの逃避ではなく、却って現実に対して最も力強き批判的接近を為す為めに必要なる飛躍である。現実批判の為めには現実のなかに居なければならないが、現実に執着する者は現実を批判するを得ない。即ち現実によりて現実を批判することはできないのである。現実を批判するものは理想である。(矢内原忠雄、国家の理想)
矢内原事件とは???


「愛国」気取りの彼(石原慎太郎都知事)の言動こそ、実はかつて室原知幸氏が終生を賭けて抗い続けた「大の虫」の傲慢さではないかと思う。

以上