戦後補償を考える 内田雅敏
日本は日韓請求権協定などの二国間条約によって、侵略戦争によって被害を被ったアジア・太平洋地域の国々との間で一応の賠償協定を結んできた。しかし、それはあまりにも不十分なものであり、しかも被害者たる住民に対して直接支払われたものではない。
日本はアメリカの核の傘下に入りこむことによって、この戦争賠償・補償の問題を巧みに免れてきた。
他と比較し、多もやっているではないかといってみたところで、南京大虐殺事件やアウシュビッツの犯罪が免責されるものではない。
「抗日華僑」といっても、そもそも中国を侵略していたのは日本軍であるから、華僑が日本に対して好意をもつはずがない。
河村参郎、十三階段を上がるー戦犯処刑者の記録、亜東書房
タイのノムムラドックからビルマのタンビザヤまでの延長約415キロメートルの泰面鉄道の建設が計画された。・・・建設工事を請け負ったのは、当時、“鉄道の鹿島”といわれていた鹿島組を中心とする日本の土建業者であった。
日本軍は占領地における性病予防と強姦の防止を図るために、兵100人につき1名の割合で、「従軍慰安婦」を置くことを計画した。
明確な戦争犯罪である七三一部隊の行為が裁かれなかったことは、天皇の不訴追とともに東京裁判のもつ大きな問題の一つである。
鹿島建設側は、「花岡事件」が強制連行・強制労働に起因するものであることを初めて公式に認め、生存者・遺族らに対して謝罪した・・・・しかし、もう一人の、それも主要な加害者である日本政府は未だにこの事実を認めようとしていない。(花岡事件:秋田県大館市花岡町の同和鉱業花岡鉱山鹿島組(現在の鹿島建設株式会社)は花岡事業所にて、強制連行されていた朝鮮人が暴動を起こし、鎮圧のため多数が虐殺された。
アジアの周辺諸国の意向を無視し、憲法の戦略不保持の規定を無視し、アメリカの鶴の一声で簡単に再軍備に応じてしまった日本。ドイツと比較。
日本は、日米安保条約を結ぶことによってアメリカの核の傘下に入り、冷戦構造の進行の中で戦争賠償の問題を巧みに免れてきたのである。のみならず、朝鮮戦争、ベトナム戦争などに際して、後方補給基地となり、特需景気をテコにして経済発展を遂げた。
(戦傷病者戦没者遺族等)援護法については、今日にいたるまで同じ戦争による被害でも、民間人の被害、すなわち空襲による被害者に対しての補償は一切認めていない。「天皇の軍隊、天皇の官吏」に対する補償のみである。前述した日本軍の「階級」による格差と併せて援護法の持つ問題点である。
前田哲男、新編 棄民の群島―非核太平洋、被爆太平洋、筑摩書房
過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在を見ることができない。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすい。(ヴァイツゼッカー西ドイツ大統領)
金銭的な支払いを伴わない謝罪なんて意味がない。
ドイツ企業の戦後賠償は当初は営業上の配慮という打算に基づく面が強いものであったが、その後さまざまな論争を経る中で、自社の歴史と向き合い、強制労働の事実を認めつつある。
(花岡事件について、)日本鋼管、三菱造船、不二越の三社は、企業としては国家の政策に従ったまでであり、なんら責任がないとしており、また、これらの問題は1965年の日韓請求権協定ですべて解決済みであるとしている。そして、さらに「時効」の主張すらしている。
国に殉じた人に国民が感謝するのは当然のこと、さもなくば誰が国に命を捧げるか。(中曽根首相、当時)
先の大戦が侵略戦争であったかどうかの問題は後世の史家が評価する。(竹下首相、当時)
南京大虐殺はなかった。先の戦争は侵略戦争ではなかった。(永野法務大臣、当時、その後罷免)
前田哲男、戦略爆撃の思想、朝日新聞社
対米政策に関してなら理性と沈着さを主張できる米内光政および井上成美両提督も、中国作戦と中国人の目から判定する限りアジア人に対しては野蛮さを隠そうともしない他と同列の日本軍人でしかなかった。.....戦後、井上成美が頑なまでにも自己に厳しい姿勢を貫いたのは、日中戦争において自らが犯した罪の大きさを自覚するがゆえんである。(前田哲男)
B,C級裁判では、捕虜虐待などの実質的な責任者である命令者が処罰されず実行者のみが厳罰に処せられるという面もあった。
日本における戦争責任の追及について決定的な問題点は、日本人自身の手による戦犯裁判がなされなかったことである。
戦争の最高責任者の一人である天皇が訴追を免れたことが、すべての戦争責任をあいまいにしてしまった。
東条内閣の商工大臣として強制連行・強制労働政策の立案に深く関与し、戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容されていた岸信介が、戦後、首相に就任することが可能であったのは、戦争責任の問題があいまいに処理されてきたからである。
オーストラリアで作られた「アンボンで何が裁かれたのか」という映画
捕虜の処刑・虐待容疑で、有罪となり銃殺されるのは、上官の命令でやむをえず捕虜を処刑した末端の実行行為者だけということになる。ここに、B,C級戦犯裁判共通の問題がある。
この裁判で浮き彫りにされた事実は、権力と特権を持った者が持たない者を犠牲にすることです。(訴追側の外国人大尉)
十五年戦争は太平洋戦争ではなく、「アジア・太平洋戦争」であったことを忘れてはならない。
二通りの罪というものがある。一つは犯罪を計画通り実行に移した罪であり、もう一つはその犯罪を可能にし、許した罪である。我々はそのどちらも望まなかったし、知らなかった。しかし望もうとするしないか、知ろうとするかしないかは、ひとえにわれわれ自身の問題であった。(ベルリンのヴァンゼー記念・教育館)
ドイツ連邦議会は、ナチスによるユダヤ人大虐殺を虚構だと発言した場合には、これを犯罪とみなし、発言者を三年以下の禁固処分に処するとした刑法改正を可決し、併せてカギ十字のマークの使用も禁止した。
どいつがこのようなきびしいたいどをとるのは、ドイツの場合にはワイマール共和国という民主主義の制度の中からナチスというファシズムが生まれたという強い反省の念があるからであろう。
日本における戦争記念館はどうであろうか。それは広島の原爆ドームに代表されるように、そこには被害の歴史は刻まれているが、加害の歴史について刻まれているものはほとんどない。そればかりではない。あの戦争を肯定する記念碑等も多々あることに驚く。
戦争責任を考えるにあたっては、何よりもまず一番の被害を受けたアジアからの視点を忘れてはならない。
私達は、戦後、平和主義を基本理念とする憲法を持つことによって、戦争責任の問題から免責されたと思い違いをしてきたのではないだろうか。
そもそもいろいろな角度から論じられなければならない教科書の記述について、国家が一定の見解、それも誤った見解を押し付けようとする検定制度にこそ問題がある。
ドイツではしっかりした歴史認識が求められているのであって、断片的知識の多寡は問題にならないという。
根本原因は、日本の中学・高校の授業がもっぱら受験のためのものであり、真に自国の近・現代史と向き合うという目的のために行われていないところにある。
加害者意識の欠如した日本の若者達が、ビジネスで、あるいは観光で、かつての被占領地域を訪れたとき、彼の地の人々との間でどのようなことが起こるのであろうか。
侵略あるいは植民地支配においては、被害者の痛みを加害者側で本当に理解することは困難である。韓国の「独立記念館」の最初の展示コーナーに、日本の植民地支配のイデオローグとしての西郷隆盛、伊藤博文と並んで吉田松陰(彼は征韓論者であった)が展示されているのを見て驚いたことがある。歴史の評価の仕方は両国によってこのように違うのである。伊藤博文の肖像を印した千円札を使用していた私達は植民地支配について本当に反省したことになるのであろうか。
言必信 行必果:言ったことについては、責任を持たなければならない。行ったことについては、結果を出さなくてはならない。(周恩来)
前事不忘 后事之師(周恩来)
以上
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