吉田松陰 変転する人物像 田中彰

かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂

親思ふこころにまさる親ごごろけふの音づれ何ときくらん

歴史とは、つねに現在と過去との尽きることのない対話である(E/H/カー、イギリスの歴史家)

松陰は、理論と実践との苦闘の果てに、新しい時代をきりひらく担い手は、当時の支配階級ではなく、在野の自覚的な「志士」だという結論にいきついたのである。

民間の「志士」や民衆の反封建的なエネルギーを無視しては、明日への日本の道はひらけない、と松陰は自覚したのである。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちるとも留め置かまし日本魂

われわれは歴史を、あとからつくられた枠組みのみでみてはならない。

革命家とは何か。時の緩急をはからず、事の難易を問わず、理想を直ちに実行せんとするは、急進家なり、而して革命家なるものは、それ急進家中の最急進家にあらずして何ぞや。

父母に対すれば孝となり、郷土いに対すれば友愛となり、朋友に対すれば信義となり、君に対すれば忠となり、国に対すれば愛国となり、道に対すれば殉道となる。その本は一にして、その末は万なり。万種の動作、ただ一心に会まる。彼が彼たる所以、ただこの一誠以て全心を把握するが故にあらずや。(徳富蘇峰)

明治十年代に展開する自由民権運動の主張には、明治維新の成果が明治藩閥政府へ横取りされ、維新のめざしたものを藩閥政府が歪曲しつつあるとみ、それを本来の軌道に戻そうという意図が内包されていた。

蘇峰は、「膨張とは他邦を侵略するの謂ひにあらず、日本国民が世界に雄飛し、世界に向かひて大義を布くにあるのみ」と述べて、日清戦争を正当化した。平民主義者蘇峰から帝国主義イデオローグ蘇峰への急旋回である。

福沢諭吉もまた、日本と清国との戦争を文明と野蛮の戦争、つまり「文野の戦争」と規定し、日本の立場を「文明の義戦」とした。

クリスチャン内村鑑三が、のちに自己批判したものの、日清戦争を「義戦」としたことは有名である。

すでに吉田松陰は明治天皇制国家の体制の人として、祭り上げられていた

民本主義とは、リンカーンのゲティスバーグ演説における、「人民の、人民による、人民のための政治」という有名なデモクラシーの政治原則のうち、「人民の」をとり去ったものである・・・・・内に立憲主義、外に帝国主義、これが大正期民主主義運動の出発点における政治理念であった。(松尾尊允)

治安維持法と普通選挙法がほぼ時を同じくして成立・公布されている・・・この「国体」と「民主主義」の矛盾する振幅のなかに大正時代はあった。

日本本土以外に、領土もしくは勢力範囲を拡張せんとする政策であり、それを否定し、全面的に植民地放棄論を主張した。(石橋湛山、「一切を棄てる覚悟」、「大日本主義の幻想」)

松陰は大商デモクラシーの鼓吹者たちを力づける存在としてとらえられていた

国体の尊厳や天皇制支配の正統性(正当性)、さらに「忠君愛国」の根源に松下村塾がすえられ、松陰がその中心人物として浮き彫りにされているのである。ただし、ここでは国禁を犯して海外渡航を企てた松陰の行動はその片鱗さえもみせてはいない。

戦争遂行の思想動員に松陰がフルに活用されはじめたのである。

個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。わが身は我れの我ならず、ただ、天皇の御為め、御国の為めに、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来れ!而して、日本精神の本然に立帰れ!(松陰精神普及会本部、松陰主義の生活)

松陰が、「突撃体当たりの死につく陸海将兵の絶命留魂の心事」と直結され、人々が「身を鴻毛の軽きに比し」て戦場に赴くことを著者は訴えているのである。(岡不可止、松下村塾の指導者)

醒めた松陰像は、戦時中の過熱した「忠君愛国」松陰像ブームと「松陰主義」の強調によって、その熱狂のなかにかき消されていた。
村松春水、下田に於ける吉田松陰
丸山真男、日本政治思想史研究他

真理のためには、思想の純粋を保つためには、彼には世間的な成功は問題ではなかったといえる。
秩序の中に進歩がなく、破壊の中にそれが保障されている。それは、まさしく歴史の危機であった。人は歴史を作る。そして、より以上に危機は人を作る。
(奈良本辰也、吉田松陰、岩波新書)

戦時中の軍国主義的松陰像を描き、それを通して戦争への士気を狂気的に鼓舞したことに対する自己批判は見られない。

歴史をつまみ食いして歴史を美化してナショナリズムをくすぐり、「大東亜戦争」などの正当化を主張した教科書すら出はじめた昨今の状況を考えると、このような流れに沿う松陰像が、いつまた再生産されるかわからない。その意味でも松陰像のあり方には十分留意しなければならないのである。

松陰が自覚された悲劇精神とその徹底の果てに気高い喜劇精神を獲得したということは、人が十分に生きつくす時、能力や学の程度に関わりなく、いかに精神的な成熟をもたらしうるものであるか、ということを示している。(藤田省三、吉田松陰)

「万物中に」て最も霊なるは、人民にしくはなしと断言する人民至上主義者であり、「聖人の政治(まつりごと)は、上を損じて、下を益す」と喝破する民主主義者であり、人民の利益の擁護者であった。(寺尾五郎、革命家吉田松陰)

松陰を歴史のヒーローとしてとらえるのではなく、人間としての松陰をあるがままに等身大でとらえることの必要性が述べられている(海原徹、松下村塾の明治維新)

彼はいわゆる世俗の成功ではなく、「行為の報酬」を求めたのである。(スティーブンスン、吉田虎次郎)

相手の立場にわが身をおき、相手の心になってわが身を考えようとするのが松陰であった。

上天子将軍より、下士農工商非人乞食に至るまで、皆以て人間なり。(司馬江漢)

優しい目線とは、身障者をいたわる目であり、弱者をいとおしむ心である。同時にそれは、弱者を弱者としてみるというより、ひとりの人間として見直し、すべての人間をそれぞれの個性をもった等身大の人間としてみる目線でもある。それは人間をあらためて平等にみつめるまなざしといってもよい。

彼の蒼なる者は天にして、一視同仁なり(松陰)

松陰という人物は、その変転する時代とともに生きているということだ。よしあしは別として、松陰はそのときどきの時代の力になっているといってもよいだろう。このような人物こそが。歴史上の人物といえるのかもしれない。そのような意味で松陰は、まさに典型的な歴史上の人物なのである。

以上