大往生 永六輔 2010.10.21
往生は往って生きることである。
死ぬのではなく、仏に成る。「成仏」
どうせ死ぬのに、どうして生きてるの。
昔、お母さんにおむつを取りかえて貰ったように、お母さんのおむつが取りかえられるかい。老人介護って、そういうことだよ。
しなやか、したたか、つややか。この三つ、これが長持ちするコツだね。
子ども叱るな/来た道だもの/年寄り笑うな/行く道だもの。来た道/行く道/二人旅/これから通る今日の道/通り直しのできぬ道
告知できる技術をもった医者が、告知されても受け入れられる能力をもった患者とめぐり逢ったときだけに限られるべきだ。
病院での死に際っていうのは、どうしたって、痛々しい姿になるんだよ。あれを見ると、家族は楽にさせたいと思うようになる。そこがつけ目なんだよなァ。
お彼岸、お盆、法事・・・・・そういうチャンスに、できるだけ死について、死者について話をするべきです。死を受け入れるトレーニングになるんです。
人生五十年というのは寿命のことじゃありません。五十歳過ぎたら人間みんな同じだっていうことです。
歳をとると、だんだん世の中がつまらなくみえてくるんですよ。つまらなくならなきゃ未練があって死ねやしません。
生まれてきたように死んでいきたい。
死ぬってことは、あの世というか、親のところに行くっていう感じだと思います。
墓石の代わりに遺骨の上に木を植えたい。(水上勉)
毎晩死んで、毎朝目が覚めるということでもある。われわれはこれを繰り返し、いつの日か目が覚めない状態になり、それを「死」というのだ。
救われるということは、自分の人生に納得し、充実感を持つことです。(無着)
いよいよ死ぬという時に、自分の信じるものをもっている人の場合には死を納得させることができるけれども、信じるものをもっていない人は、本当に死ぬことを納得できないんです。(無着)
法名または戒名というもは戒めの名前であって、戒めを守って生きていれば本名のままでいい。
延命措置を「スパゲッティ」という。管だらけにされる。
閉ざされた環境の中でさまざまな医療措置をすることによって、患者さんの肉体より精神のほうをダメにしてしまうことがある。(山崎)本人が死を自覚したときから、それをどう受け止めるか、そして家族がそれをどう見守るか、まさにそこに医療と宗教的なるものの接点がある。
患者さんが自分のまじかな死を感じて、そのことをまわりに告げ、医者をそれを受け入れたという事実がきっかけになって、そこで彼女は改めて、家族や知人のひとりひとりにお別れとお礼の挨拶をしたんです。(山崎)
残された時間があと一週間ぐらいしかないのに、そこでの会話が今日の天気がいいとか悪いとか、ではなさけないと思う。・・・家族には治らないと伝え、本人には必ず治ると伝えていることの落差はあまりにも大きい。(山崎)
ふだんから自分の死に対してもっと関心を持っておくことが必要じゃないですか。・・・死を明るく語り始める・・・
上智大学のアルフォンス・デーケン先生の「死への準備」、死を捉える教育が必要。
父を見送った時に、そうか、家族のために死んでみせることが最後にできるんだという、その姿勢こそがいちばん大事だと教えられたような気がしたんです。
死とは決して恐怖ではなくて、自然の道筋のうえにあるものだと家族に伝えられたらいいですね。(山崎)
もしもその人の死ぬことが客観的に判断されたのなら、それ以上医療はでしゃばっちゃいけない。(山崎)
死ぬことと最後まで生き抜くことが完全に一致する。(山崎)
さまざまな選択肢を現実に作ることが肝心なんだ。・・・人生の最期を豊かに迎えられるような仕組み(山崎)
旅暮らしの中で、一番好きな旅はと聞かれ、「我が家への帰り道」と答えた永さんです。
以上
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