人生を励ます言葉 中野孝次

抑制と断念について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

人間をダメにするのは窮乏よりも過剰であるかもしれない。

社会を代表する者としての父の「社会に生きる者」の教育がともなわなければ、子どもはいつまでもナルチシズム的自己中心の状態にとどまってしまうだろう。

すでに作られている機械を操ることがどんなにうまくなっても、それはあなたの物をつくりだす能力を高めることにはちっともならない。

贅沢と慰安に関しては、最も賢い人々はつねに貧乏人よりもっと簡素で乏しい生き方をしている。

心の平安は、いたずらなる欲望の充足によって生じるものでなく、反対にそうした欲望の棄却によって生ずるものである。


友情について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

自分とは違う他者が存在する、という事実を知って、ひとは己れというものを知る。

太鼓の音に足の合わぬ者を咎めるな。その人は、別の太鼓に聞き入っているのかもしれない。:ソロー「森の生活」より

天国にひとりでいたら、これより大きな苦痛はあるまい。ゲーテ「格言的」より

金持ちは友情というものを、まったく知りません。特に生まれた時からの金持ちは。:「モーツアルトの手紙」より

愛と信頼と尊敬とをもって結ばれたつながりが、友情とよばれるものだ。

我を生む者は父母、我を知る者は鮑子なり、管鮑の交わり:司馬遷「史記」より

大多数の人々が軽薄で頼みにならぬという非難を負うのは、次の二点のため、すなわち威勢がよくなると友人を軽んずるようになるか、或いは友の不遇に際してこれを見捨てるか、によるものである。

人は年たけ性格が完成せられて、初めて真の友愛の意義を悟ることができよう。:キケロ「友情について」より

苦しんだことのない者は相手の苦しみを知ることはできない。

恋愛について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

恋人の欠点を美徳と思わないような者は、恋しているとは言えない。(ゲーテ)

選択という心の動きは愛とはいえぬ。(アラン)

自惚れ人間には恋はできない。

他人の目によく見えたいという衝動からなされる行為は、それが恋やセックスに関わる場合では、そべて心の世界には無関係、ということは、僕らの真の幸福や心の深い満足とは何のかかわりもないのだ。

本当に美しい人とは、己れ自身をよく知る人である。

物にとらわれる心性、所有を自己表現と考えたがる心の状態こそ、現代の病である。

教育あるいは学問について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

食欲がないのに食べるのが健康に悪いように、欲望を伴わぬ勉強は記憶を損ない、記憶したことを保存しない。:レオナルド・ダ・ヴィンチ「手記」より

学校によって徐々に教え込まれる制度化された価値は、数量化された価値である。学校は人間の想像力を含めて、否、人間そのものまでおも含めて、すべてのものが測定できるような世界へ若者を導きいれる。:イヴァン・イリッチ「脱学校の社会」より

ただ学校制度の要求するものばかりを果たしているうちに、ひとは与えられた要求に巧みに反応するだけの者になってしまう。

学ぶとはいかに生きるかを学ぶことであって、知識を獲得することをいうわけではない。

ひとは自分が心から愛し尊敬するひとからのみ何かを学びうるのものだ。

結局ひとは自分の愛する人からのみ学ぶことができるのだ。:エッカーマン「ゲーテとの対話」より

自分のうちに持っているか、他人から得るか、独力で活動するか、他人の力によって活動するか、こんなことはみな愚問なのだ。大事なことは、大きな意欲を持ち、それをやり遂げるだけの技能と根気をもつことだ。それ以外はどうでもいいことなんだ。:エッカーマン「ゲーテとの対話」より

どうしても自分の気質や性格や生き方に合わない、好きになれないものもある。が、それは放っておけ・そうじゃなくて、自分から好きでならぬものを見つけ、その海を泳ぐことによってできる限りの栄養を摂取しよう。

必要なのは才能などではなく、強い意欲をもち、それをやりとげるだけの根気なのだ。

ひとは好きだからこそ辛抱強く、根気よく、物事を一つ一つ段階を追って達成できるのだ。それを誤って才能と呼ばれるものなのだ。

自己への忠誠について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

The whole man must move at once.
その人間の全部が一度に発動しなければならぬ。:ホフマンスタール

他人は顧慮されない。他人は審判者ではない。:アラン「スタンダール」より

私は自分の尊敬するものしかおそれない。:スタンダール「恋愛論」より

自分の本音は隠しておこう。今はそれを出す時ではない。今自分が求められているのは一つの役割を演じることだ。自分の本当に考えていること、本当の自分は成功したときに出すべきだーそんなふうに考えている人は、おそらく生涯にわたって役割しか果たせない部品のごとき人で終わるだろう。

自己の実現を先延ばしにのばす人は、明日を知らぬ人というしかないのである。

職業について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

どんな時代にも若者は人生の出発点で、基準を世間並みに置くか、自分自身のうちに置くかの決断を迫られる。

自分の仕事に熱中しそれに誇りを見出している人は、仕事そのものによって満足を受けているのだから、地位とか報酬の多寡とか社会的プレステージをもって威張ったり、不当に卑屈になったりしないだろう。

生き甲斐について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

自分が存在していることは無意味ではない、自分は自分以外の人によって人間として必要とされている、理解されていると感じることが生き甲斐なのだ。

仕事に生き甲斐を見出すには、功不功を度外視して、本当にこれこそやりがいのあると信じられる仕事を見つける必要がある。

私は、自ら尊ぶべき正当な理由をわれわれに与えうるものは、われわれの中に一つしか認め得ない。すなわち、われわれの自由意志の行使、われわれの意志にたいしてわれわれの持っている統御力がそれである。けだし、われわれが正当に賞賛され、また批難され得るのは、ただこの自由意志に基づく行動に対してのみなのである。:デカルト「情念論」より

成功とか不成功というものは、もっぱら原因を他のうちに持ち、その無数の因果関係や他人の思惑、偶然の作用によって支配される。

我事に於いて後悔せず・:宮本武蔵「五輪書」より

自己に対するなんという無礼だ、その決心したときより今の自分のほうが利口だと、どうして思うのか。:スタンダール「パルムの僧院」より

つねに自己の全部をもっていきいきと感じ、行動し、そうやって生きた自分の責任を全面的に自己において引き受ける。過ちとか、失敗とか、成功とか、そんなものは問題にもならない。デカルトは一個の人間の徳を、彼の行為によらず、彼が彼自身の上に振るう力、すなわち「自由意志の行使」のによってのみ見、かかる精神の状態を高邁と名付けた。

思想について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

良識は万人に等しく公平に分配されている。重要なのはこの「神事と虚偽とも見分けて正しく判断する力」を、眠らせておかないでつねにまったく働かせることだ、それが思想をもつということだ。:デカルト「方法序説」より

新しく起こる事態にたいし日々そのつど自分の目で見、たしかめ、考え、真実と虚偽を見分け、これが正しいと判断したことを勇気をもって行なうこと、これが精神を働かせるということなのだ。これは同時に、自分の精神で十分に考えたこと以外は口にしないということに通じる。

後世に残すべきものの第一は金だ。次に土木事業のような事業だ。そして金をためることも事業も自分にはできぬとわかったら、あと残るのは自分の思想だ。金も事業も誰にも残すことのできる遺物ではないから最大遺物ということはできない。一個の人間の生きた生涯、しかも「勇ましい、高尚な生涯」こそが、誰にでも遺せる最大の遺物だという結論に達する。:内村鑑三「後世への最大遺物」より

挫折について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

貧しいのは恥ではない、貧しいのに貧しくないふりをするのが恥だ。無知は恥ではない、知らないのに知ったかぶりをすることが恥だ。:プラトン「ソクラテスの弁明」より

生涯に挫折を一度も知らないような自信家ぐらい、いやな、つまらぬ人間はいない。自信家は他人の痛みを察することができないからである。

ひとは自分が痛みをもつことで初めて他人の痛みを知る。

ひとはそれぞれ違う環境に生まれ、異なる資質、性格、才能、顔つき、体型を先天的に与えられる。運命が与えたその条件に文句をつけても始まらないのだ。ひとはその所与の運命を自分のものとして受け入れなければならず、たとえそれがどんなものであれ、それを最大限に生かしてゆくしかない。自分を受け入れ、そこから出発してゆくしかない。不平家というのは、最後までその自分の運命を受け入れられなかった人のことだ。

ひとのことはどうでもいい。自分が本当に自分の生を生きているかどうか、大事なのはそのことだけだ。

幸福について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

苦痛があって平安があり、窮乏があって満足があり、病の苦しさがあって健康の有難味がわかるというパラドクスの発見が、苦悩なくして幸福はない、これが人間の心についてのもっとも不思議な真理だったのだ。

所有は幸福とは無縁であり、幸福とは心のあり方にのみ関わるなにかなのだ。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。:宮沢賢治「農民芸術概論綱要」より

死について (中野孝次「人生を励ます言葉」より)

死の見えない社会は生の姿も見えない社会だ。

人間つねにいま死がおとずれるものとして生きねばならぬ、それが生を楽しむゆえんだ・:兼好法師「徒然草」より

あらかじめ死を考えておくことは自由を考えることである。死を学んだものは奴隷であることを忘れた者である。死の習得は我々をあらゆる隷属と約束から解放する。:モンテーニュ「エセー」より

所有すること(to have )ではなく、いかにあるか(to be)ということにこそ、われわれの最大の関心がはらわれねばならぬ。

西川喜作「輝やけ我が命の日々よ」(新潮社)
井村和清「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」(祥伝社)
柳田邦男「死の医学への序章」(新潮社)

以上