論文捏造 村松秀

自分を哀れむことはあまり生産的ではありませんが、未来に目を向けることは生産的です。
(バートラム・バトログ、捏造の主役であるヤン・ヘンドリック・シェーンの指導者)

自分の頭の中で考えたことを、そのまま論文に仕立ててはならない。(バートラム・バトログ)


科学は国家とは本来無縁だったはずである。

嘘であることを示すどんな客観的な証拠も、ひとたび正しいと判断した自分を守ろうとする確証バイアスの前ではまったくの無力となる。人間の脳とは、そうした働きをしてしまうものなのだ。

数学なら、一つの例外を提示できれば、その証明は正しくない、という証拠になります。ところが、実験物理の世界では、嘘である、といいうことを証明するのは極めて難しいんです。

科学者は正しいことを言う。科学的真実のみを正しく報告する。そうした性善説に基づいた科学者同士の「信頼」が、科学社会には存在している。

大学の研究室では学生はあくまでも学生であり、一人前の研究者ではないという前提の中で、指導教授が厳正に教育・指導を行うのは当然の責務である。

研究全体の責任を担う人物がいないような研究は、いったいどれほどの価値のあるものなのだろうか。

共著者は一体どこまで研究全体を把握し、その研究の責任をどこまで負うのか。現代科学の研究体制の状況とまったく表裏の関係にあるこうした課題が、いま科学界に強く突きつけられているのである。

人間のシステムは、どんなことに対しても100%完璧なものは存在しないものです。ですから、どれほどの『警察国家』を望むのか、逆にどれほどの信頼関係を望むのか、という質問に答えねばなりません。両者の適切なバランスをどのように見出すかは、私たち科学に生きる人間か各自で取り組まなくてはならないことです。(バートラム・バトログ)

ピュアに知的好奇心を満たそうとする科学研究に、経済性、利益、採算性、そうしたものが介在してきたとたん、そこに捏造が入り込む余地を一気に広げてしまった。のみならず捏造をチェックし見出す仕組みを働かせないようにしてしまったのである。

ある種の対症療法的な方策を検討することも当然大切ではあるが、しかしそれ以上に、従来の科学界の仕組みが現実の科学のあり方にそぐわなくなっている、その点をしっかり捉えて対応を考えない限り、根治は難しい。対症療法はあくまで対症療法に過ぎない。

そもそもの科学のあり方を根底から見つめ直し、21世紀にふさわしい科学とはどういうものかをまとめ上げたうえで、捏造や不正も含めた諸問題に対する実際の対応の仕方を考えていけばよいのではないかと思う。

以上