新版悪魔の飽食 森村誠一
武力による無法を他国や他民族に強制しているのにもかかわらず、その戦争を正当化するために(本来、戦争にそんな必要はまったくない)詭弁を用いるところに、人間の滑稽な愚かしさがある。動物は決してそんな詭弁を用いず、戦いの目的をはっきりさせる。
動物には娯楽のための戦いは決してない。
われわれが「悪魔の飽食」を繰り返さないためにも、民主主義を脅かす恐れのあるものは、どんなささやかな気配といえども見逃してはならない。
中国人の土地や財産を略奪することがむしろ日本を守るため正当な行為であるかのごとく錯覚された時代風潮であった。これを批判する政党や個人は治安維持法違反で、国賊として権力の過酷な弾圧に遭い、投獄された上、拷問で圧殺された。
拷問は、実施容易で、一見残酷性がなく苦痛の持続が大きく、障害をあとに残さないように配慮し、「このままでは殺されてしまう」と思わせる必要があるときは、障害を残すことをためらわず、その拷問を持続することが必要である、つまり必要と判断すればどしどしやれ、と言っているのである。
「丸太」は反日抗戦、スパイ容疑の廉で逮捕され、死刑を宣告されたものであり、「どうせ殺される奴ら」である。これが七三一部隊に、大規模な生体実験を行わせる合理的口実となった。
いかなる軍隊も侵略軍となったときは悪魔の使者となる。集団虐殺、略奪、暴行、強姦、放火など、ありとあらゆる悪逆無道が戦争によって他国の領土に強制された無法状態の中で集中的に犯される。しかもそれを犯す兵士たちは、平時の自国ではおおむね平凡な市民である。家族を愛し、社会から分担された仕事を受け持ち、責任と常識を弁えた善良なる小市民が一度武器を握って侵略軍の兵士となるとき、悪鬼羅刹となってしまう。
その戦争が侵略が防衛か明確に見分けるべき基準がある。
一、戦場が彼我どちらの国になっているか。
ニ、一単位の戦闘の勝敗が決した後、残酷行為が勝者によって行われる。
三、戦闘員以外の一般市民が殺傷される。
四、戦闘員同士による戦闘にはない、市民に対する略奪、強姦が行われる。
五、戦略、戦術上必要のない、面白半分の非道が行われる。
六、交戦中の敵に対して用いられるべき兵器が、本来の用途以外に用いられる。たとえば軍刀の試し斬りなど。
陸士、陸大出身の将官にとって他国は侵略すべき対象であり、軍は自己の栄達を図る手段であり、愛国、祖国防衛の表看板の裏で軍を食い物にしていたのである。
真に恐ろしいことは、この残酷を犯した人たちと、われわれが別種の人間ではないという事実である。われわれも、第七三一部体の延長線上にある人間であるということを忘れてはならない。ふたたび戦争が起きて同一状況下におかれれば、われわれも同じ残酷外道の所業を何度でも累ねることができるのである。
民主主義というものは、本質的に脆い。それは民主主義に反する主義思想をも体内に包含する。
われわれがあ「悪魔の飽食」を二度と繰り返さないためにも、民主主義を脅かす恐れのあるものは、どんなささやかな気配といえども見逃してはならない。
以上
|