墜落遺体 飯塚訓
1985年(昭和60年)8月12日日航機13便墜落事故
520名死亡、群馬県御巣鷹山尾根
どうにもならないほどの深い悲しみをじっと心の内奥に閉ざし、必死に耐えるのも人間の究極の姿である。一家の希望が突然虚しい残骸に変わり、どんなに心が破壊され、喪失したとしても、失ったものは帰らず、人生はそのまま進行していく。
面接を主たる確認理由にしたものはわずか60体にすぎなかった。
五体がすべて揃っていたのは177体であった。
死んでいるということは精神が宿っていないのだから物体と同じではないか。だからすべてをまとめて火葬にすればいいだけである。
日本人は来世を信じ、そこでも生きると考える。いや、そうありたいと欲するのかもしれない。したがって、死んだ後も完全な死体が必要になり、死体を生きた人間と同じように扱うことにもなる。
死者を「ホトケ」という風習が成立している。死者を「ホトケ」ということこそ、「葬式仏教」の極致だともいう。
生前どのような人生を歩んでいたかは問われない。生前、特別な宗教をもっていなくても、二とが死ねば等しく「ホトケ」になれるので安心して無宗教を標榜していられるのだ。
日本人の考えには、初めに死がある。そして、遺骨というものに意味を持たせている。
あの事故で、何十年分の人生模様とか、人間の究極の悲しみ、そして、人間愛というものを一度に体験させてもらった。
人は死を恐れるあまり、生きるということについて真剣に考えないのかもしれない。
どうせ確実にやってくる死であるなら、穏やかに死を迎えたいものだ。
以上
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